↑サンピエトロ広場:聖人の彫刻がずら〜〜と並んでる
いつかサヴォナローラが聖人になったら
絶対いくよ
要旨を2時間で書いた
疲れたよ(3019字)
[要旨] 2005年度西洋史専攻卒業論文
「サヴォナローラの神権政治と市民感情の変化」
[はじめに]
カトリック教会は中世から絶大な権力を持ち、同時に権力を金銭で手に入れようと聖職売
買が進み、教会腐敗も続いた。その結果数々の宗教改革者を輩出することになったが、そ
の中で私は宗教改革者の先駆けとも言われるサヴォナローラについて調べてみた。
フィレンツェは約60年にわたりメディチ家が支配し、キリスト教以前の「文芸復興」を
唱えルネサンスが花開き芸術都市として繁栄していた。しかし当主ロレンツィオが死去し
て2年で今まで築き上げて来た文化を放棄して市民らはサヴォナローラに傾倒していった。
異教の哲学に触れ、異教題材の彫刻を広場に飾りルネサンスを謳歌していた市民らが反動
的な神権政治を展開していくに至ったのか大変興味深い。そのため今回のこの論文ではサ
ヴォナローラの説教、神権政治と市民の感情変化について調べてみた。
[第一章 千年王国思想と預言の関係]
サヴォナローラは説教の中でヨハネ黙示録を多く引用していたフィレンツェは中世以来
『フィレンツェは新しい第二のシャルル・マーニュによって再建されるだろう』という「千
年王国思想」と「かつてフィレンツェを異教徒から解放したフランクの王」が結びついた
民間信仰が信じられていた。そして14世紀の経済危機危機、飢饉、黒死病の流行によって、
死が身近なものに感じた市民らは宗教的な熱が高まり『教会や市民の腐敗に対する神の神
罰が下るときが来る』という考えも広まっていった。サヴォナローラはその民間信仰を説
教に聖書からの引用で代弁して市民の感情を煽っていた。サヴォナローラは預言者という
よりもむしろ民間信仰にも詳しく、哲学にも精通している宗教者だったのかもしれない。
フィレンツェはキリスト死去300年も経たないうちから、キリスト教文化が流入してきた。
原始キリスト教と文化がいち早く融合した都市であったがゆえに、他の都市よりも千年王
国思想が信じられやすかったのではないだろうか。
[第二章 預言者から指導者へ]
フィレンツェで60年あまり続いたメディチ家の統治は共和制を名乗りながら、実質は独裁
という黒幕政治を維持していた。外交では穏健政策を掲げ平和均衡を保っていたが、ロレ
ンツィオの死とフランス軍のイタリア遠征の開始によって崩れていく。サヴォナローラは
その二つの事件を事前に預言的中させることによって、都市内外から注目視されていた。
そしてフランス王への使節団にも選ばれ、サヴォナローラの説得によって略奪を免れた市
民らは修道士の預言的中と神がかりな説教に傾倒し、評議会すら修道士の説教ひとつで動
かされる傀儡政権であった。共和制を目指しながら実は市民たちは新たな指導者を欲した。
そしてそれはサヴォナローラによる神権政治のはじまりでもあった。
[第三章 宮廷画家からサヴォナローラ信奉者へ 〜ボッティチェルリの場合〜]
ボッティチェルリはフィレンツェで活躍したルネサンスを代表とする画家の一人である。
彼はメディチ家の宮廷画家として活躍し異教を題材とした数々の芸術作品を手がけた。し
かし彼は1490年代になると突如画風と題材を変えていく。黙示録的題材を多く含む彼の絵
からサヴォナローラの説教からの影響がうかがえる。そしてその絵の変化はマニエリスム
の先駆的要素も感じ取れる。
サヴォナローラに傾倒した文化人、芸術家は数多くいた。そしてこの修道士の説教は芸
術文化さえも変える影響力を持っていた。それはまるで君主並のカリスマ性ではないだろ
うか。キリスト教徒として生活を改めよと諭す君主のごとき修道士。彼に対し市民らはヨ
ハネ黙示録でいう「キリストの祭司」もしくはキリストの再臨を重ね合わせていたのかも
しれない。
[第4章 サヴォナローラとアレクサンドル6世]
サヴォナローラの支持率は常に教皇アレクサンドルとフランス王シャルルに影響されてい
た。フランス王支持に回ったサヴォナローラは教皇の腐敗を連日のように説教で取り上げ
ていたが、怒りに触れ破門される。サヴォナローラは各国の王に公会議招集を呼びかけた
が失敗に終わり、奇跡をいつまで経っても見ることができないことに不満を感じた市民か
らは見放され、シャルル王の死も相まってフィレンツェで処刑された。宗教都市を目指し
ていた敬虔なキリスト教徒サヴォナローラの処刑は、教皇でありながら放蕩にふけってい
たアレクサンドル6世に対する敗北であり、同時に神に依存していた中世までの思想に対
する離脱の表れだった。
[第5章 処刑の理由について]
火の試練を素直に受けなかったことに対する市民の怒りは衝動性が高かったものの、各派
の計画性も窺い知れる。商人が中心を担うこの町で教皇を敵に回すと貿易ができなくなる
ため信仰心よりその日の暮らしを選んだ結果市民らは、邪魔になったサヴォナローラを処
刑した。その判断をしたのは貿易にかかわる裕福市民が大多数を占めていた。それに対し
中下層市民はサヴォナローラが生前行っていた貧民政策などで救われたことを忘れず、支
持者が大勢いた。支持者にとって、宗教者として見本とも言える生活をおくっていたサヴ
ォナローラの処刑理由も納得のいくものではなかった。そのためサヴォナローラ処刑後の
フィレンツェでは裕福市民と下層市民の溝が深まっていく。
[終わりに]
私はルネサンスというものに憧れを持っていた。しかしフィレンツェ市民は「文化の黄金
期」とかつて誇りとしていた芸術文化を捨て、キリスト教原理主義者ともいえるサヴォナ
ローラに心酔した。その心変わりが私には到底理解しがたいものだったために、今回論文
の題に選んだ。そして取り組んだ結果わかったことは、千年以上にわたりキリスト教に依
存した生活を送っていた市民らはいったん「神からの解放」を唱えてみたものの、後ろめ
たさというものを感じていたのではないだろうか。そのため少しでも社会不安に陥ると神
罰だとふれ回るものも出て、それを信じるものも出てくる。サヴォナローラは修道士とい
う「神に仕える」職業であったからなおさら信じるものが多かったのであろう。そして「神
罰」を預言し、それが的中することによって人々はキリスト教徒への回帰の心を呼び起こ
した。かれの行ったこと説教集で読むことができるが、それを見る限り異端者とは到底思
えない。彼の説いた@神への畏怖A隣人愛B質素倹約生活も、聖書からの引用通りである。
しかし彼は腐敗した教皇を糾弾した結果反逆罪で処刑された。
市民は一丸となってサヴォナローラの掲げる宗教都市を目指し、政治改革も行った。政
治に対する助言もしたが、しかしあくまで彼は修道士であった。そのため市の利益より教
会の腐敗を重視し、結果教皇を敵に回した。
サヴォナローラの処刑を「殉死」と書いてある書物はまず見当たらない。むしろ「狂信
者」や「怪僧」という表現で彼をあらわしている書物が多かった。未だにカトリック教皇
庁でも異端者のままになっている彼だが、果たして彼の行った宗教活動、宗教政治はキリ
スト教徒にとって有害な、異端的なものであっただろうか。論文の書く前の私は多くの書
物にあるように「狂信者」という表現がサヴォナローラには合うと感じていたが、書き終
えてみると疑問に感じる。彼はヴァチカンのサン・ピエトロ広場に飾られてもおかしくな
いだろうと私は思う。つまり異端者というより殉死した聖人に近いのではないだろうか。
「サヴォナローラの神権政治と市民感情の変化」
はじめに
1、
千年王国思想と予言の関係
2、
預言者から指導者へ
3、
宮廷画家からサヴォナローラ信奉者へ
4、
サヴォナローラとアレクサンドル6世
5、
市民感情の変化 〜破門から処刑まで〜
6、
処刑の理由について
おわりに
はじめに
800年サン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世によるフランク王国君主シャルル・マーニュの戴冠式がおこなわれた。ゲルマン人大移動以降混乱していた西欧諸国の再編を教皇の要請で果たしたカールは西ローマ帝国皇帝の称号を手に入れた。同時にその出来事は教皇権の強化に結びついていったのだった。11世紀になると、キリスト教の名の下に、異教徒からのエルサレム奪還を掲げ十字軍を各地から召集派遣し、「教皇は太陽、皇帝は月」と喩えられるように絶頂を極めていたローマ=カトリック教会だが、その権力の絶大さは叙任権闘争や聖職売買を引き起こし、挙句の果てには免罪符を様々な階層の人に売りつけ、その売上金でサン=ピエトロ大聖堂の大修復まで行っていた。しかし「中世」という時代が終わり、教会の矛盾、腐敗を公の場を使って説く者も出てくることになる。そして近世への節目にサヴォナローラ、後にルターやカルヴァンといった宗教改革者を輩出していくことになった。
この中でも、宗教改革の先駆けとなったイタリアのサヴォナローラは、私にとって大いに興味深い人物である。フランスを代表する文学者のスタンダールは、大のイタリア贔屓で有名であるが、彼の残した作品の中で
「(カトリック教会の)たくさんの醜聞がジロラモ・サヴォナローラを出現させた。彼は偉大な性格と多くの才知を持った人物で、のちにルターが行う役割を試み、1498年に火あぶりになった。」[1]
と述べられている。しかし、例に挙げられた二人のめざしたものには大きな違いがある。サヴォナローラはローマ・カトリックの教義や存在自体は否定していない。それどころか逆にカトリック教を布教し、その件に関してはアレクサンドル6世すら高く評価している。彼は教会内部における組織の腐敗を糾弾し、改革を目指したのである。そのため宗教改革者というより「カトリック教改革者」と言ったほうがいいかもしれない。(それに対しルターは、カトリックの制度や教義を否定し、プロテスタントを誕生させた。)サヴォナローラが目標として掲げていた理想の宗教都市は、貧富の差や支配者である皇帝を非難し、迫害されながらも、信仰心を持って質素倹約に生きていたローマ時代のカトリック教会原型でもある原始教団[2]とすこしばかり似ているように感じる。言いかたを変えると、彼はカトリック教原理主義者的な傾向があったといってもいいかもしれない。
私が今回取り上げる人物ジロラモ・サヴォナローラは1452年、フェッラーラにて生まれる。祖父にから教えられスコラ哲学や聖書に熱中し、大学では芸術、医学、神学などを学んだ。両親は息子に、医者であった祖父や父の後を継ぐことを期待していたが、22歳で神学に目覚め家出同然にトマスアクィナスが所属していたボローニャにある修道院の門をたたく。そして7年後の1482年にフィレンツェにあるサンマルコ修道院に神学教師として着任した。それからしばらくして説教師となったがはじめは失敗続きであった。1484年のある日突然「天啓[3]」を得てからというもの、説教を黙示録的なものに方向転換してから市民に影響を及ぼし始める。
サヴォナローラが赴任してきた頃のフィレンツェは、ロレンツィオ・デ・メディチが表に見えない独裁政治を展開しており、彼らが保護したビザンツ帝国から亡命してきた古典の研究家、その彼らが持ってきた古典ギリシア・ローマ時代の原典などに影響を受けたフィレンツェの芸術家や文化人達が、堅苦しいキリスト教教義である神中心の中世文化から、いち早く人間中心の近代文化への転換を唱え、結果「文芸復興」を果たしたイタリア・ルネサンス発祥の地となった。都市国家が乱立する中で文化、芸術の都として栄えていたフィレンツェが、突如ロレンツィオの死をもって文化的繁栄やそれに伴う利益を切り捨てる。そして市民らは神学、信仰にかかわる近代主義や合理主義を厳しく叱責する説教を繰り返し唱えていた外から来た修道士サヴォナローラに傾倒していき、「飢えに苦しみながらもぜいたく品を売らず火の中に投じた」強い信仰心を持つようになったが、しかし長続しなかった。中世と近世の狭間で起こったルネサンス。そしてそれとは対照的であり一種反動的な神権政治という形態も経験することになる。双方を短期間で引き起こした市民の思想転換は驚くべき事態だと私は感じた。そのためこの卒業論文では、サヴォナローラの説教と民衆の思想転換について調べてみた。
1、千年王国思想とサヴォナローラが行った予言の関係
『また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行
う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえ
に首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に
獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストととも
に、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年おわるまでは、生き返ら
なかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかるものは幸い
な者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死はなんの力も持って
いない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王に
なる。』 (「ヨハネの黙示録」、20章、4−6)
私たちは数年前に20世紀最後の年(世紀末)を迎えたが、その際ノストラダムスの予言などに代表される「世界終末の思想」に触れる機会が、メディアなどを通して何度もあっただろう。オカルティズムのように感じるこの思想だが、基本となるものは新約聖書のヨハネ黙示録中に見られる考えであり、もともとはキリストが地上に再び再臨し、最後の審判前まで千年間統治するという「千年王国思想」に由来している。初期キリスト教の信仰生活のなかでは重要な位置を占めていた。終末思想や千年王国思想を重要視する考えは時経つにつれて薄れてきたが[4]、それでもなお、この思想は時代を超えて様々な影響を各地に与えてきた。そのなかでフィレンツェも例外ではない。
フィレンェの基礎を築いたのはローマ帝国であった。紀元前50年頃にローマの植民都市として建設され、3世紀にキリスト教が広まり始めると、4世紀には司教座も置かれ繁栄した。しかし5世紀のゲルマン人大移動により、トスカーナ一帯は東ゴート人と東ローマ帝国との争いの地となる、さらに570年になるとランゴバルト人が侵入、トスカーナ全土を支配した。その数々の戦いによって街は荒廃したが、774年にランゴバルト人をシャルル・マーニュが破ったことによりフィレンツェは異教徒による支配から解放された。のちにフランク王国は分裂するが、この街はオットー1世が統治する神聖ローマ帝国の支配下におかれていくことになる。商業革命によって大きく発展したフィレンツェは、その後神聖ローマ皇帝に独立を認めさせ(1187年)コムーネ(自由都市)となった[5]。
このあと中世諸都市は聖職叙任権闘争から始まったギベリン(皇帝)派、ゲルフ(教皇)派との争いに巻き込まれていくが、最終的にフィレンツェは教皇側とフランスの支援によってゲルフが勝利を収めていくことになる。この事件に関して伊藤良太氏が論文で、
「このとき『フィレンツェは新しい(第二の)シャルル・マーニュによって再建されるであろう』という新たな民間信仰が信仰する。」[6]
と述べている点に注目したい。ゲルフ・ギベリン闘争の際に、教皇派だった銀行家の多くは北フランスを主な拠点としてイギリス、シャンパーニュ、フランドルの市場まで経済圏を伸ばしていった。その銀行家たちに影響された商人たちはこぞって教皇派につくことによってフランスに商業進出していった。ゲルフ・ギベリン闘争に関してのフランス支援と、シャルル・マーニュによるトスカーナ解放という理由からフィレンツェ市民の多くは親フランス的であったと思われる。現にフィレンツェの歴史書にはしばしばシャルル・マーニュ関係の伝説や彼の復活予言などが出てくる[7]。英雄視された人物が神格化されていくのは歴史上少なくないが、シャルル・マーニュもこの街では聖人のように扱われ、時が経つにつれて黙示録と結びつくことによって民間信仰が成立したのだろうか。その他、フィレンツェの紋章である百合は一説によるとフランスに関係あるとも言われている(別の説ではフィレンツェ近郊に群生しているアイリスとも言われているが)。
そのあとも千年王国思想に関する民間信仰は、フィレンツェの危機がおとずれる度形を変えて取りざたされてきた。1341年の英仏百年戦争勃発による経済的な大打撃[8]、14世紀に入ってからの度重なる飢饉(多くの死者を出し、難民が次々と都市へ流れてきた)、さらにはヨーロッパ中で大流行した黒死病のため人口の約半数(約4万人)が死亡した[9]。社会的、経済的打撃を経験した市民らはこの危機を、自然災害、人為的な災害というよりむしろカトリック教会や市民生活の腐敗に対する「神の神罰」であると考え、教会支配の終焉が近いと考え唱える者も出てきて、この考えはフィレンツェ市民の心の中に残っていくことになる[10]。しかしこの考えはいったん政治経済社会が安定してくると表から消えた、しかしチョンピの乱が起こった際にも、預言者のようにこの考えを再び取り出して述べ立てるものがあちこちにいたという。
そして、@「フィレンツェは、フランスの王(第二のシャルルマーニュ)によって再建されるであろう」
A「教会や市民の腐敗に対する神の神罰が下るときが来る」
多くのフィレンツェ市民が心のうちに抱えている、この二つの民間信仰をサヴォナローラはおそらく知っていたのだろう。そしてそれを「預言」という形で民衆に広めた。「見よ、神の剣は速やかに地上に振り下ろされるだろう!」と説教の際に彼は叫んだとされる。そのあとサヴォナローラは1494年12月7日の説教にて
『軍隊を恐れるな。悪しく築かれたものを壊すために。しかる後に改革するためにバビロニアやイエルサレムすなわち教会に敵対するキュロスを恐れるな。フィレンツェよ、汝のもとからあらゆる迷信を一掃せよ。かつ聖書が述べているように、天にあらわるる徴しのゆえに、」恐れるるなかれ。すなわち、天の徴しに従うな。』[11]
と述べていたとされるが、これは「フランス王をペルシア帝国の王キュロス2世と例え、ローマに攻めに行くフランス軍は、腐敗した教会再建のためにイタリア入りした「神の剣」なのだから恐れるな」と聖書からの引用を使って説教を展開した。つまりサヴォナローラに神の声が聞きこえていたのかはわからないが、かれは千年王国思想から来ている民間信仰と、聖書をうまく引用することによって預言者としての地位を築き上げてきた可能性は大いにある。さらにPopkin氏は「サヴォナローラはプラトン、アリストテレス哲学などに精通していた。そして引用もみられる」と述べている[12]。彼と親交のあったジョバンニ・ピーコ・デラ・ミランドラ[13]はサヴォナローラの支持者であったと同時に哲学にも通じていてサンマルコ修道院行われる哲学の講義に呼ばれたこともあった。そのため彼からの影響か、もしくはサヴォナローラの祖父の影響で哲学に詳しかったのであろう。説教では哲学が神学に及ぼす影響を批判しているが[14]、かくされた引用をしていることは興味深いことであろう。
伊藤氏の論文を中心に踏まえて考えるには、フィレンツェという町は、ローマとさほど遠距離ではなく、キリストが死んで300年も経たないうちに宗教都市となり、キリスト教文化が流入してきた。原始キリスト教から多く特色を受け継いだ頃の早期文化流入が要因となって、他都市よりも終末思想を心の中に強く根付かせたように思える。(それに対しゲルマン民族以降のカトリック教会はそれぞれの民族に布教をすすめるため伝統と文化に信仰を融合させていったが、それによって教義の解釈に差異が生じた。形式、儀式にとらわれるばかりに終末思想自体が遠ざかっていった。)
ルネサンス期、市民は人間としての生活を謳歌し神から離れていた。しかし1000年以上信仰の拠り所であり生活文化の中心をなしていた神に対して後ろめたさというのを感じていたのは事実だと思う。そのためいつかは神罰が下ると考えていたのも事実だと思う。だから、災害があるたびに神罰だと叫ぶ者も多く、それに共鳴する市民が多かったのでないだろうか。そしてその不安を神に所属する職業「修道士」のサヴォナローラが強調したことによって神権政治という反動が起きたのではないだろうか。
2、預言者から指導者へ。
1492年以前のフィレンツェでは、コジモ・イル・ヴェッキオから続いたメディチ家の支配が約60年間あまり続いていた。1469年からはメディチ家当主であり、同時にこの街最大のパトロンであったロレンツィオ・イル・マニフィコが家督を継いだことにより、フィレンツェ・ルネサンスの黄金期を迎える。彼は友好平和維持を政治理念に穏健政策を展開した。つまりミラノとナポリと三都市同盟を結びながら、一方ヴェネツィア、ヴァチカン教皇庁とも親しい外交関係を築き、内乱続きのイタリアの平和を維持させてきた重要な位置にいた。また国内だけでなくイングランド、フランス、スペインとも関係を持っており、ヨーロッパ中の王や諸侯の中でメディチ銀行の世話になっていない人を探すのが難しいほどであったという。一方都市内では、独裁色を表に出さず、都市の重要決定は親族かメディチ派である第三者(共和制元首)に決定させるという共和制を名乗っていた。老コジモの代からメディチ家の家訓であったSEMPER(常変わらず)を守り、黒幕政治をそのまま継続させていたため、イル・マニフィコの役職は「百人評議会の議員」しか持っていなかったが、しかしおこなった仕事から察すると都市内外から事実上の君主と認められていたであろうことが容易にわかる。他の諸都市よりも君主による抑圧が少なかったため(そのためロレンツィオは「イル・マニフィコ(寛大な)」という敬称で親しまれた。)そしてメディチ中心としたパトロン活動のためルネサンス文化の繁栄を迎えた。
そんな彼が死亡した1492年、イタリア国土の平和均衡が一気に崩れる。混乱に乗じてフランス軍がイタリア遠征を開始し、その争いにイタリア諸都市も次々と加わり長い間の戦争に巻き込まれていくことになった。ロレンツィオがいたからこそ、平和維持が成り立っていたと嘆くものもすくなくなかったという[15]。メディチ家はロレンツィオの長子ピエロが跡を継いだが、フィレンツェ近郊まで迫っていたフランス軍との独断交渉[16]が市民の反感を買い、交渉失敗と、かねてからの貴族的で君主的である尊大な態度が市民の不満を買い、フィレンツェから追放されてしまった。そんな頃、政治の表舞台に出てきたのがサヴォナローラである。
なぜ、ただのサンマルコ修道士に過ぎなかった彼が政治に関わるようになっていったのか興味深い。サヴォナローラがおこなっていた預言じみた説教のカリスマ性は、かれの友であり、伯爵であり、文化人であり、そして異端者でもあったジョバンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラの噂などを通してヨーロッパ中で有名になっていた。パリに滞在経験のあるピーコの影響でフランスでも名前が知られていたから、市議会でフランス王のもとへ交渉に行く使節団の団長は、有名人サヴォナローラにするべきだという意見が可決されたという。そしてピサを舞台に預言者と、彼が「神の剣」と表現していたフランス王シャルル8世が対面し2人だけで話し合いをすることになった。議論の内容についての文献はないので不明だが、おそらく「腐敗していたカトリック教会の改革」についての話はされていたのだろうと思われる。シャルル8世のイタリア遠征の最終目的地はナポリにあった。王は、南イタリアで最大規模を誇るこの海港都市を軍事基地の拠点とし、オスマン帝国軍から聖地を解放するという十字軍の再開を目指していた。そして「十字軍遠征」を掲げるからにはキリスト教徒の最高元首である教皇による承認が必要であった。そのため教皇領の通行証を手に入れる目的で経由地トスカーナの首都近郊まできていたのである。サヴォナローラは敬虔なキリスト教徒である王を神の名で脅し、それにフィレンツェ近郊の民衆暴動が起こったことも便乗して、ピエロ・デ・メディチが苦労した戦争回避と友好相互補助の条約を結ぶことをあっさり成功させた。それだけでなくこの修道士は、フランス軍のフィレンツェ領内即時出発とローマへの早期進軍を促した。
フランス軍の脅威から脱することに成功したフィレンツェに残された課題は、メディチ体制からの政治的転換だった。はじめはメディチ体制時代のメンバーが政治体制を維持していく方向で政府の建て直しを計ろうと1494年12月2日に市民集会を開いたが、反メディチ派の市民中心に不満が広がった。そんななか12月7日に、渦中の人サヴォナローラが行った説教の内容がフィレンツェ市民に大きな影響を与えた[17]。彼は新体制の大幅な改正を市民に訴えたのである。将来だれも首領になれないように法を作り、ヴェネツィアのような評議会体制を目指し、神の崇敬に専念した都市国家を作ることによって、自由と平和が生まれると公言した。結局、サヴォナローラに背中押された市民らはメディチ体制に加担していた政治家を大方排除し、あらゆる市民層から新たに選出された評議会[18]ができた。しかしまとまりがなかったため、初めの頃政治はマヒ状態に陥っていた。新しい評議会でまず話し合われたことのひとつに、メディチ派の処刑や追放についての議論があるが、サヴォナローラはメディチ派の弾劾、処刑に対して批判し[19]、その説教を聞いた議会は彼の説教通りにしたため、メディチ派は役職などを剥奪されたものの、一市民として生き残っていくことになった。(彼らの大抵はサヴォナローラに恩を感じることもなく、自らの権力回復のために、サヴォナローラの支持率が低下する度に体制転覆の機会を密かに狙っていくことになる。)このときに反メディチでサヴォナローラ支持派の「修道士派(フラテスキ)」、修道士派の中で特に潔癖な道徳思想に走った集団「泣き虫派(ピアニョーニ)」、そして「メディチ派」に市民たちは分裂していくことになる。それとは別に、メディチ派処刑に反対したサヴォナローラに対して、両者は通じているという噂も流れ、反サヴォナローラで同時に反メディチの「憤慨派(アッラビアーティ)」が形成されていくことになった。この頃から、密かに都市内外でサヴォナローラ批判が広がっていったとされる。
鬱積していた共和主義感情を解き放ち、結果としてメディチ家という支配者を追放したフィレンツェでは、共和制をもとめながらも、元首よりむしろ新たな指導者を必要とした。フィレンツェ中を動かすことのできる資質がある人は、以前からメディチ体制を批判し、フランスからこの都市を救ってくれた、サヴォナローラその人くらいであろうと考える人が少なくなかった。サヴォナローラもそのことを意識していたのだろう。議会ができたばかりの頃は以前より彼の説教に政治色がつよくでていた。即席でつくられた議会も元首も、一介の修道士であるサヴォナローラの説教ひとつで動く傀儡政権であったともいえよう。
雄弁さと、誠実さと、カリスマ性を持った彼を批判する人が多くいたが、それ以上にサヴォナローラは身分や老若男女問わず支持されていた。支持というより「傾倒」していく人が後をたたなかった。中世まで縛られてきた「キリスト教的生活」からの脱却と人間再生を掲げ発生したルネサンス。そのルネサンス花開いたこの地で未曾有の宗教都市国家が誕生していくことになるのである。そして自らルネサンス文化の繁栄を担っていった文化人、芸術家たちもそれに巻き込まれていった。
宮廷画家からサヴォナローラ信奉者へ
〜ボッティチェルリを例に〜
いつの時代も社会的事件や政治不安は感受性の強い文化人や芸術家たちにすぐさま大きな影響を与えつづけてきた。1453年のビザンツ帝国滅亡によって流入した、カトリック以前のギリシア・ローマ文化に触発されイタリア・ルネサンスが開花、はたまた16世紀前半の宗教改革やイタリア戦争はマニエリスムを生みだし、現代を例にとってみれば世界大戦という社会不安からシュールレアリスムが誕生したことがあげられるだろう。フィレンツェ史上類を見なかった、サヴォナローラの神権政治という社会事件に影響を受けた文化人は数多くいたが、この論文では生涯フィレンツェに生活拠点を置いた、ルネサンスを代表とする画家の一人であるボッティチェルリをあげてみる。
アレッサンドロ・フィリペーピ、通称サンドロ・ボッティチェルリはフィレンツェ皮なめし職人の息子として1444年、もしくは1445年あたりに生まれたとされている。はじめ彼は両親の勧めで金工師の元へ奉公に出たが、当時金工師と仲良かった画工師たちの仕事に興味を持っていった。1463-1464年頃、両親の説得に成功した彼は、カルメル会のフィリッポ・リッピ[20]のところへ絵画を習いに行くことになった。当時、師フィリッポ・リッピは修道女との駆け落ち、詐欺まがいのことをして訴えられたりと[21]世間を騒がせていたが、画家としての腕はたしかであり、自由奔放な性格の彼が描き出す作品は、今までの堅苦しい宗教画から抜け出した人間的で優雅な絵画であったために、広くフィレンツェ市民に愛され[22]、特にメディチ家のコジモ・イル・ヴェッキオからは一生涯寵愛を受けた[23]。だが、フィリッポ・リッピはコジモの紹介で1467年スポレート市からの依頼を受け、その2年後に死去したため、それがきっかけでボッティチェルリはポラオヴォーロやヴェロッキオの工房を転々とすることになった。このときボッティチェルリすでに画工界では技術を評価されており、弟子としてではなく協力者として工房入りしたとされている。
彼は次第に仕事で信用を得るようになり、その中でもメディチ家の依頼でたくさんの作品を残していった。師フィリッポ・リッピがほとんどメディチ家専用画家のような立場であったため、その弟子ボッティチェルリもすでにメディチ一族に名の知れた存在だったのであろう。この画家に関する本格的で最も古い伝記とされるのが、ヴァザーリの書いた『ルネサンス画人伝』であるが、その本を読むとボッティチェルリがメディチ家のおおよそ宮廷画家として地位であったことを強調している。ボッティチェルリが描いた有名作のひとつに《東方三博士の礼拝》[24]がある。同じ題名の絵をボッティチェルリは何作か残しているがもっとも有名なものが1475年あたりに作成したとされるそれである。この絵は実在の人々―パトロンであるメディチ家の人々と、メディチ家と親密な交流があった人たち、ルネサンス文化を担った関係者たちの姿が描かれている。それを個別に指摘したのがヴァザーリである[25]。描かれている人物の特定はさまざまな説があり今でも議論となっているが、向かって右の赤毛の青年がボッティチェルリ自画像という説は今日まで一般に定着している[26]。絵の中には他にもコジモからプラトンの訳を命じられたフィチーノ[27]や詩人のポリツィアーノ[28]、そして一学説にはジョバンニ・ピーコまで登場しているが[29]、この絵で、美術や文化がメディチ家にとって重要であったことを忠実に示しているだけでなく、作者ボッティチェルリが自身を絵画に描くことによって、メディチ家の宮廷画家であることを誇示しているように見て取れるであろう。
この後も彼は、《コジモのメダルをもった男の肖像》4《ジュリアーノ・デ・メディチの肖像》[30]など、メディチ家に依頼された数々の作品を描いたが、その中でもっとも名高い彼の作品のひとつとして《プリマヴェッラ》4がある。この作品はロレンツィオ・イル・マニフィコが後見人を務めていた、ロレンツィオ・ディ・フランチェスコの結婚記念に描かれた物であり、注文主はイル・マニフィコもしくは、ロレンツィオ・ディ・フランチェスコ当人であるとされる。当時流行を博していたメディチ家の哲学者フィチーノのネオ・プラトニズム(この哲学者は異教の神々を道徳の寓意像として見、そのなかのヴィーナスを「人間性と徳」を養う女性像として評価していた)、さらに詩人ポリツィアーノの『ジョストラのための詩』に影響を受けた作品といわれている。ボッティチェルリは絵の中に3人の女神を描いているが、ポリツィアーノの詩で3人のニンフが出てくる。しかし同じ頃に偶然プラトンアカデミーを訪れていたジョバンニ・ピーコ・デラ・ミランドラが、「ヴィーナスの統一性は三位一体伸美神たちの内に開示される」[31]と述べていたことと関連している可能性もある。フィリッポ・リッピを彷彿とさせる伏目がちな春の女神、彼の作品の多くに見られるその哀愁漂うその表情はどこかメランコリックなものさえ感じ取れる。
ボッティチェルリはメディチ家の宮廷画家という地位を得ることにより一般のギルド組合員と比較して、大抵自由にこのような異教的主題を数多く描くことができたが、一度フィレンツェとローマの平和的な関係を再興するという名目のもとメディチ家当主ロレンツォと教皇シクストゥス4世から注文を受けた。その依頼にしたがって1481頃、システィーナ礼拝堂の壁画を描きにコジモ・ロッセリ、ペルジーノ、ギルランダイオら当時フィレンツェ画工界で活躍していた芸術家たちとともにローマへ赴くことになる。ヴァチカン・システィーナ礼拝堂に《モーセの試練》、《キリストの試練》、《反逆者たちの懲罰》などの巨大なフレスコ画、そして弟子とともに数人の歴代教皇の肖像画を描いたが、いずれも傑作とは言いがたかった。なれない道具や環境のせいもあるだろうが、絵が思うように描けなかった主な理由のひとつとして、ボッティチェルリはこの頃神に対する信仰心がほとんどなかったということがあげられるだろう。聖書という重い題に縛られた彼は絵に統一性を失わせている。
ローマでの依頼を完成させ、1485年にフィレンツェに帰ってきた彼はすぐ、本来の彼が好んだ異教的題材の《プリマヴェッラ》と一対の絵である《ヴィーナスの誕生》4を描き、《パラスとケンタウロス》4という絵に取りかる。それらはともにメディチ家のピエロ・ディ・フランシェスコの別荘に飾られることになった。ヴァザーリは、「プリマヴェッラとともに2つの作品は彼の手でまことに生き生きと優雅に描かれている。[32]」と、彼を評価している。そしてさらに《パラスとケンタウロス》という名の作品はボッティチェルリとメディチ家が関わった最後の作品といわれている。そしてこれを境に彼は絵画表現を大きく変えていくことになる。
ボッティチェリのキリスト教に対する信仰心は人一倍薄かったが、そんな彼がローマからフィレンツェに帰ってきてから、修道士サヴォナローラの説教で騒然としている都市の変わり果てた姿に驚愕した様子が想像できる、絵画表現から読み取れるように、もともと感化されやすい彼はその出来事に興味を抱き始めただろう。おそらくボッティチェルリが身を投じていた、ルネサンス的思想を厳しく批判しているサヴォナローラの説教を聴き入っているうちに、次第に深い感動を覚えるようになったのだろうか。
サヴォナローラは道徳にかなった人生や懺悔の生活が永劫の地獄から抜け出す道であると説いたが、フィレンツェ市民の多くは堕落していた自らの生活を省みて、彼の説く信仰の持つ厳かな意味をかみ締めていた。ボッティチェルェルリもその中の一人だったに違いない。それとの関連性は不明だが、彼はちょうどこの頃からダンテの神曲の地獄編挿絵を書くようになる。サヴォナローラの繰り返していた「堕落=神罰=地獄」という説教に影響されたのかもしれない。
こうしてサヴォナローラの思想に影響されていった彼は、絵画の題材を聖母マリアや、キリストの神秘的な話を中心に選ぶようになっていった。
なぜ信仰心の薄かったボッティチェルリがサヴォナローラの熱心的信奉者になったか。
絵画は無言の詩である。しかしそれは「文字」ではないために、秘められた訴えや真実を見極めるのが難しい。そして画家は当時「芸術家」というよりむしろ「職人」であったから自伝を残すことはまずなかった。識字率は商人養成のための学校教育がおこなわれたことへの賜物で諸都市と比べて高かったが、職人に関しては読み書きできないものも少なくなく[33]、活版印刷も文化人や宗教家を中心とした高価なものであったため尚更である。つまりボッティチェルリが本当にサヴォナローラの信奉者だったとはっきり記載されている史料はほぼないので[34]真実は不明である[35]。しかし、彼の兄や、近所に住んでいたパトロンでジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチは熱狂的なサヴォナローラ信仰者であったという史料はのこされている[36]。そしてボッティチェルリもピエロ・フランチェスコも教師であるジョルジョ・アントニオからラテン語を教えてもらった。そのため彼らの思想から影響を受けた可能性もおおいにありえるのである。
かつてルネサンス文化繁栄の中心を担った一人であるプラトンアカデミーのフィチーノや、ポリツィアーノの弟子であったロレンツィオ・ディ・フランチェスコはボッティチェルリの絵を非常に高く評価し、一番のパトロンであったことを踏まえて、この画家自身がプラトンアカデミーに出入りしていた可能性も低くない。現にボッティチェルリ絵画の中にはたくみにネオ・プラトニズムな特色が出ている。そしてボッティチェルリとジョバンニ・ピーコも面識があった可能性も低くない。ジョバンニ・ピーコは、有名な甥ジャンフランチェスコ・ピーコと同じくサヴォナローラの親しい友人である。ブルーニ・サンティ氏の述べた《東方三博士の礼拝》人物特定に関する説を支持することを前提と考えるならば、ボッティチェルリは確かにジョバンニ・ピーコを絵に描いているのである。肖像群としての絵画の中に目の前で見たことのない人でもともかく、話にも聴いたことない人は普通絵に描けないであろう。だから彼から影響を受けたという可能性も0パーセントではないといえる。
ボッティチェルリの晩年の作品《神秘の降臨》[37]や《象徴的な十字架》[38]にはサヴォナローラの行った説教からの影響が大きいだろうと予測されている。メディチ家の宮廷画家だった時代からボッティチェルリはネオ・プラトニズムの本質を理解しそれを絵に表現していたが、その感化されやすく瞑想的な性格がサヴォナローラの教義を深く理解させることになったと思われる。彼だけでなくロレンツィオ・イル・マニフィコ時代の異教徒的文化の担い手だった詩人やネオプラトン主義者、画家たちも次々に帰依して、回心していった。サヴォナローラの行いの代表的なもののうちに、豪華な衣服や異教徒的な題材の芸術作品を押収し、シニョリーア広場に集めて破壊、焼き払うという、儀式めいた「虚栄の焼却」があったが、そのときボッティチェルリは、進んで過去に自分が描いた俗的で異教徒的な作品の多くを焼いたというエピソードは有名だ。彼は異教じみた題材、曲線優美でフィレンツェ市民に愛された彼らしい様式を捨て、宗教的情熱から説明的な表現や硬直した宗教画を制作するようになっていく。
晩年のボッティチェルリに関する文献の多くは「サヴォナローラに心酔していった結果、画面にぎこちない動きを示すようになり、保っていた統一性が崩れた作品を、急速に進展していくイタリアの美術界についていけない画家の悲劇」[39]といったようにまとめているが、果たしてそうだろか。私はそこに少し疑問を感じざるをえない。私はむしろ彼の晩年の作品の中に後にイタリア中のみならずヨーロッパ中に広まっていったマニエリスム[40]的な様式を感じる。
晩年の彼の作品からみられる共通の特徴として極端で不自然な動き、精神的な緊張感を、デッサンを狂わせ、部分を誇張させるという方法で絵画表現をしているが[41]、それはまさしく自然よりも方法を重視し、作品はかなり人工的、技巧的というマニエリスムの定義[42]にあてはまるだろう。晩年の彼はほとんどフィレンツェで忘れ去られた人になり、1510年、孤独と貧困のうちに死亡したといわれているが、それは必ずしも彼は画家としての腕が落ちたのではなく、ボッティチェルリの絵画にフィレンツェ市民たちが共感できなかっただけかもしれない。取り残されていったのはサヴォナローラの影響で、ルネサンス芸術を焼き壊し、イタリア戦争に翻弄されていったフィレンツェ市民たちの芸術に関する完成だったのかもしれない。一般的にルネサンス古典主義美術はラファエロの死(1520年)とローマ劫略(1527年)で終息し、フィレンツェ石工出のミケランジェロ[43]あたりから、マニエリスムへと変容していくというのが通説であり、マニエリスムの特徴はやがてバロック様式に引き継がれていくことになる。しかし実はボッティチェルリは、そのマニエリスムの先駆的画家だったのではないだろうか?ボッティチェルリが美術史の中で再び取り上げられるようになったのは19世紀になってからであり、その後の20世紀では、社会不安を芸術に表現したシュールレアリストたちがマニエリスムとともに、ボッティチェルリの初期から晩年の絵を評価し直したことからもこの考えはあながち間違えではないかもしれない。
ボッティチェルリの傾倒を例に挙げてみると、サヴォナローラの説教を通しての「神権」政治は政府の方針や市民の生活だけでなく、芸術文化すら変えてしまうほどの影響力を持っていたことがわかる。それはただのカリスマ修道士というより、むしろ「君主」のようではないだろうか。しかし、前にあげた俗的な暴君達とは違う。神の使いである、神の裁きを預言する王である。ヨハネ黙示録中の一文にある『神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王になる』王を髣髴とさせる。彼は望んでいようともいなくとも、周りの多くは洗脳されるように彼のカリスマ性に吸い寄せられ、その驚くべき社会変化をリアルタイムで見ていたフィレンツェ市民たち、はまるでキリストの再来を重ねて見ていたのかもしれない。
サヴォナローラとアレクサンドル6世
芸術の黄金時代とも言われたルネサンス社会をたやすく変化させた、サヴォナローラのその「神がかり的な」カリスマ性は、フランス王シャルル8世の遠征とともに頂点を築き、シャルルの死とともに崩れ去った。つまり、一時的なものであった。
フランス王シャルルのイタリア侵攻が、各諸都市の混乱を招き、はじめはシャルル側を支持していたミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロまでが、恐れをなして教皇側に寝返った。しかしフィレンツェはシャルルを支持つづけていた。宗教国家を樹立するためにはシャルルという「神の剣」が必要だったからだ。そのため教会改革を説き続けるサヴォナローラとともに、フィレンツェはイタリア各都市から批判を浴びたが、その国際的批判に乗じて憤激派中心に、反サヴォナローラの動きが市内でも出てきた。しかし外の諸都市と手を結んで画策したわけでもなく、市内も修道士派が圧倒的多数であったため、政治には影響しなかった。
そんななかシャルル8世はローマに到達する。教皇アレクサンドル6世は篭城の末に、教会領の自由通行を認め、同盟国だったナポリを捨て、フランス軍が進撃することを認めた。シャルルがこの条件を承諾し、アレクサンドル6世と手を結んだとこにより、サヴォナローラの支持率は下っていくことになる。神罰を与えに行くはずのフランス王が、名誉欲に負けて教皇側につくというのは、これはまったく彼の予想をはずれた結果だったにちがいない。1495年の1月にその出来事のためショックを受け、説教にて、国政関与をやめ、修道士に戻り、伝道師になることをほのめかした[44]。そしてしばらく政治に関する説教は自粛した。
しかし、あれほど大々的に、腐敗したカトリック教会の批判を説教したサヴォナローラが教皇の耳にはいっていなかったわけではない。フランス王の問題が落ち着き、アレクサンドル6世は国内情勢に目を向け始める。その中で、サヴォナローラの説教は問題のひとつに取り上げられたのである。身内であり総本山であるローマ・ヴァチカン、そして教皇個人のプライベート問題まで攻撃するサヴォナローラに対し、そのフィレンツェの体制を変えるほど住民に及ぼす、絶大な影響力ゆえ無視できなくなった教皇庁は、彼を失脚をさせるためにルッカへの出張を命じた。しかしサヴォナローラはすでにこの都市になくてはならない存在であったので、フィレンツェ政庁が出張撤回を求め、それが通ったためサヴォナローラ失脚計画は失敗に終わる。このときすぐ出張撤回が受理されたのは、まだローマがサヴォナローラの影響力についての見解が甘かったのだからであろうか。それとも今絶大な支持を誇っているサヴォナローラ問題より再び移動を始めたフランス軍の動きの方が重要問題であったために後回しにされたのであろうか。
一方、ヴェネツィアではその頃同盟を作り上げていた。スペイン、神聖ローマ皇帝、教皇が「聖同盟」となづけられた同盟を交わしていた。それはイタリアをかき乱すシャルル8世がトルコ遠征に行くのを封じ込めるために作られたものであった。異教徒征伐が美徳で英雄的であるとされる中世という時代は過去のものとなり、アレクサンドル6世の支配していた時代ではイスラム教国家は敵ではなく、気は抜けないが大事な商談相手であった。[45]そしてイタリア諸都市の多くは貿易で生計を立てる商人が多くいたため、シャルル8世の十字軍遠征が現実のものとなったならば、貿易商は麻痺すること必至であり、都合が悪かったのであろう。
聖同盟結成により、フランス軍のナポリ遠征への雲行きがあやしくなってくる中、フィレンツェでは、聖職者の一部が宗教会議を開き、反サヴォナローラ同盟が密かに結ばれる。彼らは今のうちに対仏聖同盟側に寝返るほうが得策だと考えた。しかしサヴォナローラが実権を握っている以上それは不可能だった。秘密会議はサヴォナローラの説教で取り上げられ、批判され握りつぶされた。
同じ時期に、裏切り行為をした教皇と聖同盟に憤慨したフランス王は北に引き返し始め、教皇らも逃げ延びるため北上し、フィレンツェにシャルルと、報復を狙うピエロ・デ・メディチが略奪に来るという噂も流れ、再び都市内に緊張が高まった。そこで市民は、かつてこの地をシャルルから救ってくれた、サヴォナローラに期待をよせ、彼はそれにこたえ「フィレンツェ人民の代理人兼弁護人」としてシャルル8世の下に交渉しにいった。結局シャルルという台風は、フィレンツェから反れ、パルマ近郊で聖同盟軍と衝突した。ピエロも結局市に入らなかった。
こうしてサヴォナローラは再びこの都市を救った。しかし、このあと病のため一時説教から離れる。その間にサヴォナローラを失脚させて、フィレンツェを聖同盟に入れようという動きが活発化していくことになる。サヴォナローラは回復を待たずして説教を行い、市の聖同盟加入計画を批判したが、彼の説教が政庁にたずねてきていた教皇の使者の耳に入り激怒させた。使者はこの事態を教皇への報告書としてまとめ、サヴォナローラのローマ召喚を求めた。早速教皇は1495年7月21日にすぐローマに出向くように教書を出す。そして教書に書かれていた召喚を拒否したサヴォナローラに対し、同年9月8日に再度教皇は教書を出した。そこには破門という脅し文句も含まれていたが[46]、サヴォナローラの属するロンバルディア修道会により握りつぶされた。しかし、教皇は、サヴォナローラの説教は行き過ぎであるため、教皇庁からの新たな説教依頼命令があるまではおこなわないこと。という通達を出した(10月16日)。つまり、説教をすれば破門するという内容だった。サヴォナローラの説教ひとつで方針を変えるフィレンツェ政府にとって、この通達は本人以上にこたえただろう。サヴォナローラの支持率が、政庁の支持率といってもいいくらい説教に依存していたのだから、同時期に届いたフランス人がピサに城塞を返還した、というニュースと相まって、サヴォナローラ派と政府の立場を危うくさせた。政治体制に反対する暴動も起こり始めたころ、各枢機卿を通しての努力の甲斐あって、フォレンツェ政府はサヴォナローラ破門予告の撤退を教皇に認めさせることに成功し、彼はすぐさま説教を再開した。その場で彼はローマとフィレンツェを比較し、教皇庁をはじめとするローマの腐敗(はびこる同性愛、聖職売買など)について説教をした。そして教皇から出された「説教⇒破門」を堂々と非難した[47]。
説教を禁止されたのをきっかけに頻繁に出版物をだしていたサヴォナローラの「天啓大要」や「キリスト教徒の素朴な生活」といったような書物はヨーロッパ中の知識人たちに流通した。キリスト者としての正しい生き方を改めて訴えた書物を読まれることによって、彼を異端視する教皇等に疑問の目を向け始めた人も少なくなかった。ここまでくると教皇としての立場が危ういとアレクサンドル6世は考え始める。教会側は、委員会を発足させ、サヴォナローラの調査を始めた。その話を聞いた市民の間には、今度は破門だけでなく町に聖務停止がじきに宣告されるとの噂が流れ出す。商業都市であるこの町に、聖務停止が言い渡されたら死活問題である。それに危機感を覚えたサヴォナローラは教皇に向けて、ローマ教会に従う心構えと、教皇個人に対する名指しの悪口を言った覚えなどない。といった内容からなる弁明の手紙を書いた。低姿勢に出たサヴォナローラだが、フランス王のイタリア遠征再開の噂がまた出始めると、今度はこぞってヴェネツィアを除く諸都市の支配者がこの修道士を利用して、フランス王と手を結ぼうと考えた。
いまや説教が政治になり、フィレンツェでは統治者といってもいい、サヴォナローラを一目見ようと市民だけでなく外国人や政府の役員まで集まってきていた。それはフランスの脅威がいったん延期されたニュースが流れてもなお続いた。そこで説教に痛い目見ていたカトリック教会は方向転換して、サヴォナローラの勧誘政策に乗り出した。教会組織が彼に枢機卿という地位を出してきたともされる。しかし彼は拒否する。また双方の溝が深まってくる。そしてフランス軍の遠征の延期も確実なものとなったことも被って、諸都市の君主もまたサヴォナローラから離れていった。[48]
その頃のフィレンツェ市民は、サヴォナローラの宗教都市に疑問を感じ始める人が増えていった。穀物の不作によりパンの値段が上がり、国民の生活水準は低下し、ピサの喪失にたいしても不満がつのっていた。ピサでは度重なる戦いの果てに人々の多くは戦死し、略奪され、飢餓するものも出ていた。そしてそれとは別件で、サヴォナローラの頭を悩ませる集団が影響力を持つようになってくる。愚連隊(コンパニャッチ)[49]と呼ばれる裕福な若者中心のグループは、ルネサンスを謳歌していた頃の生活を懐かしみ、サヴォナローラ体制をしばしば幼稚な形で妨害した。この問題児たちに対し、逮捕を促す説教をくりかえし、サヴォナローラが考え付いた風紀取り締まり集団「少年隊」を中心として街中に派遣し直ちに逮捕が実行に移された。
そうしてルネサンス的快楽主義を排除し、崇高な宗教都市建設をめざしたサヴォナローラのカリスマ性は頂点を見る。1497年の政務官選挙でもサヴォナローラ派が独占し、その政権期間中に行われたカーニバルでは、以前の乱痴気騒ぎとは正反対の、風紀を乱す絵、衣装などを押収し広場で焼くという行為をメインフィナーレに行った。ルネサンス時代に古代芸術の再評価をし、デカメロンを読み、ボッティチェルリの《春》や《ヴィーナスの誕生》に感嘆し、ルネサンス文化を開花させたことを自らの誇りとしていたフィレンツェ市民が、サヴォナローラへの傾倒のため、野蛮に、衝動的にそれを実行した。それは芸術品やぜいたく品の焼却であったと同時に、心の中にあったルネサンス文化を破壊することにもなった。フィレンツェのルネサンス熱はサヴォナローラによって鎮火された。しかし彼はこのあと権力の坂道を下っていくことになる。
市民感情の変化 〜破門から処刑まで〜
カーニバル時の政務長官はサヴォナローラ派であったが、この人物の職権乱用のせいで派全体が不評を買い、次の長官はメディチ派のデル・ネーロが選ばれた。彼のときピエロ・デ・メディチが復権をもくろんだが計画倒れに終わる。さらに次の政務長官は憤激派に属する者が選ばれた。議会議席は相変わらずサヴォナローラ派が多数を占めていたがしかし、長官が主導権を握っていたため、サヴォナローラ個人に対して説教禁止を発令した。そして、大々的にサヴォナローラ追放運動を行った。
サヴォナローラに降りかかった不幸はそれだけでは終わらず6月19日には、影響力が衰えてきたことをいち早く察知した教皇庁から破門状がとどいた。サヴォナローラは市民に、破門の無効性を主張するが政府は混乱する。フィレンツェ側は破門撤回要求書を発送するが、それに対する条件として、ローマはサヴォナローラのローマ召喚を再度要求してきた。そして、その回答はNOだと送り返すと、ローマは聖同盟への加入と破門撤回を新たな交換条件に出してきた。それも受けなかった。サヴォナローラ本人はは破門を無視して説教をやめず、教皇批判をやめなかった。そしてそれに怒った教皇はじかに手紙を出す。そこに書かれていたのは、以前と同じ内容と、サヴォナローラの説教停止がなされなければ、フィレンツェを聖務停止するとのことであった。そして、個人の破門ならともかく、聖務停止は都市経済は破綻するとかんがえて、彼は説教を一時やめ、教皇が問題にしなくなったのを見計らってまた再開する、を繰り返した。
その頃の市民は、破門されたサヴォナローラの説教を聴きに行くのをやめる者が日に日に増えていった。説教を聴くことはそのまま破門の罪になるからである。外の都市との取り引きがある商人が多いこの街で、破門にされたら食べていけなくなる。
そこで反サヴォナローラ派政権がつづいた政府は、サヴォナローラ弾劾の審議会を開いた。経済破綻の危機から、サヴォナローラ政策の反対意見が過半数を大幅に上回り、3月17日にはサヴォナローラ本人に説教の禁止を言い渡した。それをサヴォナローラは受け取り、説教をやめた(しかし、この修道院長に負けないほどのローマ批判を弟子たちが説教していた)。説教禁止の知らせを聞いた教皇は、かれの逮捕とローマ連行を再度要求する。それに対抗するためにサヴォナローラは以前から考えをめぐらせていた「公会議召集」に向け、各国の王に請願書を出す計画を進めていく。
神に一番近い存在であるとされる教皇と、真っ向から対立しているこの修道士に対し住民は、この頃から違う期待を寄せるようになっていく。神の使いであるサヴォナローラに危機が迫っている。本当の神の使いであるならば、この危機を奇跡でも起こして乗り越えるに違いない。といったような考えが下層市民中心に広がっていた。そしてサヴォナローラ自身も説教で助長した[50]。そしてその頃別の場所、サンマルコ修道院から2kmもない近所にある、フランチェスコ会のサンタクローチェ教会では、サヴォナローラ批判が熱狂的に行われていた。その中で一説教師がサヴォナローラに対し、火の試練を提案した。神の使いならば、火の中に入っても焼けない。一方ペテン師ならば焼け死ぬだろうと広く信じられていた。ドミニコ会はこの試練を受けると返事を出したが、サヴォナローラではなくほかの修道士が入ると主張した。なぜならサヴォナローラはその野蛮な試練に反対していたからだ。フランチェスコ会はサヴォナローラ本人の試練を要求し、この出来事は、憤激派が仕切っていた審議会議にまで発展した。奇跡に期待するサヴォナローラ派も、失敗を期待する反サヴォナローラ派も、この試練に大半は賛成派であり、炎の試練は市議会によって可決され、4月7日を待つのみとなった。しかし、当日になって、火に入る修道士の服装やその他いろいろなことで長々と議論を繰り広げ、延期されることになった。自らの正当性を実証しなかったサヴォナローラへの不信といらだちを見せる市民らに愚連隊は「サヴォナローラ本人の火の試練」を叫び、それに触発された一部の市民が、サヴォナローラ派の市民に対して暴力に出たりした。そしてそれは次の日の大聖堂での騒動へと駆り立てし、そのままサンマルコ修道院への襲撃にまで発展した。攻撃中止命令を出した政府は直ちにサヴォナローラの国外追放を要求し、無視するならば死刑との宣告を下しだ。市民はサヴォナローラの生死問わず逮捕しようと武器を手に取った。それに対抗してサンマルコ修道院は大砲まで取り出して、数人の死者が出た。結局、これ以上の混乱を避けたかったこの修道院長は弟子のドミニコと共に自ら敵の下へ出頭し、連行された。
サヴォナローラは裁判にかけられ、「世俗的な名誉が欲しいあまり預言者として演じた[51]」と署名させられ、拷問を受けた。そうして自白させられた。教皇庁から尋問官が派遣され、法廷で2人の修道士とともに死刑が決定された。こうして1498年5月23日、絞首台に上ったサヴォナローラは異端者として45歳でこの世を去った。シニョリーア広場で公開処刑された。処刑日には火の試練と同じくらいの見物人が集まったという。サヴォナローラの築いてきた道は4月7日のために一気に崩れ、もはや「処刑される見世物」として死んでいった。聖書の教えを忠実に守り、崇高な宗教都市建設を目指した彼が、教皇という地位をコネと金で買い、放蕩にふけった人生を送っていたアレクサンドル6世に負けた。市民は最終的に、神の国より今の生活を選んだ。それは中世までの思想からの自発的な脱却であった。そして、神に依存していく生活からの離脱の表れであった。サヴォナローラのカリスマは、ルネサンスから市民の心の中に育まれていた「『守るべきキリスト教の教義』からの解放」という考えを握りつぶすことができなかった。
処刑の理由について
サヴォナローラがフィレンツェに赴任してから、処刑されるまで一通り流れを見てきたが、大まかに見ていくと、処刑されたきっかけというのが、表向きには衝動的な市民感情によって引き起こされたもののように感じるが、しかし細かく見ていくと、それぞれの派が失脚を計画し、実行した結果にも見て取れる。そして、失脚計画を練るに至った大きな2大要因は教皇アレクサンドル6世とフランス王シャルル8世の動きであった。2つの大きな勢力に影響され、教皇につくか、サヴォナローラに倣いフランス王につくかで市民らは翻弄され、結局フランスイタリア遠征撤退という結果を聞いた政府や市民らは最終的に、教皇批判を絶やさなかったサヴォナローラが邪魔になり、シャルルも死去して2ヶ月も経たない頃、政治的無用になったかれを処刑するに至った。
市民は、ロレンツィオの死で社会不安がつづく中で次第に宗教的情熱を帯びてくる。自分の耳で聞いた預言が後日自分の間近で的中し、奇跡を見た人々は次々と傾倒し、サヴォナローラの像、メダイヨンを作り、神の使いである彼を先頭にして、宗教都市を築いていこうと生活を改めた。サヴォナローラは慈善税による弱者の救済や、贅沢をせず質素な生活を叫び下層市民だけでなく、多くから支持をあつめた。
聖書に忠実なキリスト教徒を目指す彼は、教皇庁の腐敗に黙っていられなかった。しかし敵に回した相手が強大すぎた。教皇の最大の武器「聖務停止」を掲げられ、市民のサヴォナローラに対する態度はすぐ変わる。政務停止は、商人で成り立つフィレンツェにとって何よりも痛い攻撃であった。市民らは信仰心よりもその日の生活を選んだ。
ルターにはザクセン選帝侯という擁護者がいたが、サヴォナローラにはかくまってくれる指導者はいなかった(彼は裕福市民や支配者層を批判していた)。そのため彼はマキャベリのいう「剣をもたない預言者」[52]として一人で教皇に立ち向かう。
この修道士を支持し続ける人も多くいた。その多くは政治に影響力をもたない中、下層市民であった。そんな彼らだから処刑を止めることはできなかった。
長い間贅沢、遊戯を禁止され、いたるところで生活を監視されて抑圧されていた上層市民らはロレンツィオの時代を懐かしみ、ついに不満が爆発した。もはや支持者たちにはどうすることもできなかったのだろうか。
シモーネ・フィリペピの日記の中で、「ボッティチェルリが、サヴォナローラが処刑されるに至った理由を裁判官に聞いている」記載がある。サヴォナローラはなぜ処刑されなければならなかったのか。この修道士が繰り返し述べたことは、@神への畏怖を持つこと。A市民は互いに愛し合い、あらゆる憎悪を捨てるべきこと。(隣人愛)B原始キリスト教徒のような質素倹約正しい生活に改めること。それらを無視し、堕落した生活を送ると神の罰が下るとのことだった。それ自体聖書に従った説教であろう。しかしサヴォナローラは、聖書で非難されている贅沢、放蕩の限りをつくしている教皇やコネと金がはびこる黒い教会を非難した、間違いを正そうと説教したサヴォナローラが逆に闇に消されてしまった。サヴォナローラの破門理由は、ローマ教会に対する反逆罪というものであった。その納得のいかない処刑理由が、サヴォナローラ派が多かった市民層と反サヴォナローラ派の貴族との対立を生み出していった。
終わりに
サヴォナローラより半世紀以上前、同じく神の声を聞き立ち上がった少女がいた。彼女の名前はドンレミ村出身のフランス人ジャンヌ・ダルク。フランス軍勝利の神託を受けた彼女は自ら剣を手に取り軍を指揮しイギリスを大敗させた。後に彼女は政治の駆け引きにされた挙句、魔女裁判にかけられサヴォナローラと似たような最後を遂げていった。その彼女は処刑後約500年経った1920年、ローマ教皇ベネディクトゥス15世によって聖人として改められた。なぜ魔女として焼かれたジャンヌは聖人となったのであろう。「神の神託を聞き、フランスを勝利に導いた」から?しかし聖書を読み解き、神がいるという前提でジャンヌの神託を当てはめていくと多く矛盾が生じる。神はキリスト教徒同士の戦いなんて望んでいなかった。隣人愛を説くキリストがそのような声を一少女にかけるなんて明らかにおかしい。どちらか一方の勝利なんてのぞんではいない筈だと私は思う。わたしは彼女の「聖人」列聖を疑問に感じる。彼女の信仰心は否定しないが、その信仰心を利用されていたか、狂信者が幻覚を聞いただけだったのかもしれない。
中世より教皇庁は長きにわたり繁栄を極めヨーロッパの一大勢力として各国に影響力を与えてきた。しかし信仰というオブラートに包まれた教皇庁は俗的な王たち以上に一般市民のことはあまり考えていなかった。なぜならば信仰がある限り倒れることのない支配力だったから。その怠惰な政策が教会腐敗を招き、宗教改革を起こす原因となった。信仰の分裂を生んでしまった教皇庁はそれ以降市民の関心事をいち早く察知している。マリアが出現したという場所や、病気が治った泉などの噂を聞くと早速聖地に指定し巡礼ルートを作る。一方イエスズ会を代表するように学校教育とともに宗教教育熱心におこなっていく。プロテスタントという敵を自ら作り出してしまってからは信者獲得に余念がない。そんななかフランス国内で、ほとんど伝説と化していたジャンヌを取り上げ、聖人とすることによって人気獲得を目指していたのではないだろうかとまで感じてしまう。21歳の若さで悲劇的な最後を遂げたジャンヌ。これはほぼシャルル・マーニュを神格化したフィレンツェの民間信仰と似たような領域であるように思われる。
それに対して、同じような方法で処刑されたサヴォナローラであるが、彼は未だに「異端者」である。私は教皇庁に言いたい。ジャンヌよりサヴォナローラの方がよほど聖人に近いのではないだろうか?私は個人的に芸術が好きであり、それを保護したメディチ家がに好感を持っていた。そしてルネサンスに強い憧れを持っていた。そのためサヴォナローラに傾倒した市民らの行動が理解しがたかった。だから卒論のテーマに選んだ。
そして最後に得た答えは、サヴォナローラは宗教者の模範であり、腐敗した社会を剣使わず改革を目指した。「崇高なる神の国」これこそカトリック、いや、キリスト教徒の究極の理想ではないだろうか。彼は政治家というよりも宗教者だった。あくまで政治は腐敗した市民生活をキリスト教徒にふさわしい都市に正すために助言を与えたに過ぎない。そして市民らはそれにすがり、やがて教皇、市民らの利害関係のために消された。神が俗に負けた瞬間であった。卒論文献探しでさまざまな本を読んでいくと、サヴォナローラに対し「狂信者」という表現を使っているものも少なくない。果たして狂っていたのはサヴォナローラであったのだろうか。私はそうは思わない。確かに彼は熱心なクリスチャンであっただろう。しかし狂っていたのは社会の方ではなかっただろうか?教皇の方ではなかっただろうか?サヴォナローラの説教集を読んでいく限り、彼の行ったことは理にかなったことであったと私は思うし、「世俗的な名誉が欲しいあまり預言者として演じた」ようにも思えない名誉が欲しければ教皇にたてつくようなまねはしない。名誉欲に駆られた時期もあったかもしれない。しかし彼は生涯聖書に忠実でいただけであった。そう感じる私は500年前のサヴォナローラに傾倒してしまったのかもしれない。
かつてサヴォナローラが生活していたサンマルコ修道院は美術館という形で現存している。そしてその2階の奥片隅にサヴォナローラの僧房を500年経った今でも見ることができる。ガラス張りにかざられた飾り気の全くない僧衣、質素な机、その上に置かれたびっしりと細かくメモが書き込まれた聖書。信者としての彼の努力というか、生活というのが窺い知れて印象に残った。主観的に判断するならば物欲、支配欲に駆られた狂った修道士には見えなかった。あれだけ熱狂的信者を輩出したフィレンツェは、華やかな芸術の都というキャッチフレーズを復活するのと交換にサヴォナローラに関するものの多くを捨てたようだ。
しかし、彼の故郷フェッラーラでは町のシンボルであるドゥオーモ広場に凛然と、厳しい顔で立つサヴォナローラ像を見ることができる。町の中心にこのような像を建てるということは、フェッラーラ市民たちはサヴォナローラを異端者だと思っていないのであろう。むしろ同郷人の誇りとしてみているのであろうか。カンパニズモという概念は茨城県民であるがゆえに私にも多少理解できる(茨城は同郷心が強い)。いつか彼らがサヴォナローラにたいしての異端撤回を要求するかもしれない。しかし教皇庁はジャンヌのようにたやすく撤回は出せないだろう。彼女の場合と違ってサヴォナローラの敵は教皇であったから、撤回は教皇庁の(過去であるが)腐敗を認めることになる。しかし今の教皇ヨハネパウロならば、撤回要求を受諾するかもしれない。歴代の教皇が断固しなかった十字軍の過ちでさえも公式に認めたのだから。
アレクサンドル6世は悪名高き教皇として知られているが、サヴォナローラの破門に対しては慎重に進めた。破門の撤回も試みた、勧誘策も行った。最終的には処刑に至ったが、教皇はなぜすぐに逮捕させたりしなかったのであろう。それは教皇自身もどちらの言い分が正しいのかを理解していたからなのかもしれない。そしてサヴォナローラを殉職者にしてしまうことを恐れたのではないだろうか。
『私が殉教者になれば、汝は暴君になるだろう』[53]
サヴォナローラの放った預言がいつか成就するも来るかもしれない。
参考文献
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[1] スタンダール著『ローマ散歩U』臼田紘訳 新評論 2000年 P220
[2] 須藤祐孝編訳・解説『ジロラーモ・サヴォナローラ ルネサンス・フィレンツェ統治論 説教と論文』 無限社 1998年 p114-115 この中で彼は原始教団の組織を賞賛している。そして原始教団以降の教会体制を批判している。
[3] 天啓とは 小さな教会堂で、ふいに雷に打たれたように3つの至上命令を聞いた。至上命令とは教会をたたきこわし、それを改革し、速やかに着手することの3つであったという。(エンツォ・グァラツィ著、秋本典子訳 『サヴォナローラ イタリアルネサンスの政治と宗教』中央公論社 1987年 P43)
[4]久山道彦、泉守彦、吉岡良昌著『考えながら学ぶキリスト教』川島書店 2000年p147-148では、「使徒たちの働きが過去になるにつれて、終末の接近を強調するよりも、教会の伝統を重んじて、キリスト教のアイデンティテイーを人類の諸文化の領域に広げる営みが起こっていき、文化と聖書が結びつくことによって聖書の信仰に固有の終末的な神認識が希薄していった。」と述べられている。
[5] 10世紀末にルッカからトスカーナ首都の地位を奪い11世紀半ばから皇帝からの独立を考え始めた。1115年にトスカーナ君主としてにんめいされていたマチルデ死とともに自由都市宣言をした。そのあと皇帝からの正式な承認を受けたのは1187年であった。
[6]伊藤良太「ルネサンス期イタリアにおける都市住民の宗教的熱狂について−サヴォナローラの宗教運動をめぐって−」イタリア学会誌 1986 P82
[7]ひとつの例として、17世紀初頭メディチ宮廷作家のバロンチェルリの『フィレンツェのメディチ家の起源と系譜』をあげるとメディチの祖先はシャルルマーニュ軍の武将であり、メディチの紋章もシャルルに関係していると書いている。メディチの祖先と紋章に関しては今でもさまざまな学説があるが、この話は歴史学的に信憑性の薄い話ではある。(森田義之 『メディチ家』 講談社現代新書 1999年 p15より)
[8]このときイギリス王エドワード3世に巨額の資金を貸していたバルディ商会とペルッツィ商会をはじめ大きな商会は次々に倒産。エドワードは戦争を理由に借金を踏み倒したためである。(藤沢道郎著『物語 イタリアの歴史―解体から統一まで』中公新書 1991年 p127)
[9] ピエール・アントネッティ著『フィレンツェ史』中島昭和、渡辺容子訳 白水社 1986年 p47-48
[10] [10]伊藤良太 同論文 P83
[11]藤祐孝編訳、解説 前掲書 P16
[12] Richard Popkin“The History of Scepticism”OXFORD UNIVERSITY PRESS 2003 New York P21-22
[13]佐藤三夫著『イタリア・ルネサンスにおける人間の尊厳』有信堂高文社 1981年を要約すると
ジョバンニ・ピーコは1463年フェッラーラ近郊ミランドラの領主の末子として生まれる。プラトン・アカデミーにもいたことのある哲学者・神学者。彼はフィチーノに比べてプラトンよりもアリストテレスの研究に没頭した。1486年にローマにおいて哲学・神学に関わる討論会を組織するべく運動した彼は、その内容が異端的なものであるという疑いを教会にかけられ、追われる身となるが、この討論会の冒頭演説として彼が用意したのが、その後各方面に影響を与えた「人間の尊厳についての演説」である。
[14] 須藤祐孝編訳、解説 同書 p115で、サヴォナローラが「すなわち哲学というものがやってきて、修道たちを聖書から哲学者たちの知恵へと道をはずれさせた。その結果、聖書の断片さえしられなくなった」と説教した旨が記載されている。
[15]根占献一『ロレンツィオ・デ・メディチ』南窓社 1997年 p265
[16] ピエロははじめ、ナポリを支持してフランス軍に抗議したが、事態が悪化する一方だったため独断交渉でピサとリヴォルノの支配権放棄、近隣の要塞の無償明け渡し、かなりの額の軍資金を支払うことを約束してしまった。ロレンツィオ晩年あたりからメディチ銀行はほとんど破産状態だったため、軍資金は市民の税金から出さなければならなかった。そのため市民のピエロに対する反発は一気に膨れ上がった
[17]藤祐孝編訳、解説 前掲書 p14〜p26
[18] ベネツィアに倣い作られ、12月24日に完成された即席の大評議会はこのあと約40年ほど続いていくことになる。
[19] 須藤祐孝編訳・解説 前掲書 p107
[20]《母子と聖アンナの生涯の物語》ピッティ宮蔵、《聖母子と天使》ウフィツィ美術館蔵などが代表作にあげられる。
[22]ヴァザーリは『ルネサンス画人伝』p98で、リッピの作品に共通する優雅さとプロポーションを評価している。
[23] 同、p95-103
[24]《東方三博士の礼拝》《コジモのメダルをもった男の肖像》《ヴィーナスの誕生》、《ヴィーナスの誕生》は共に現在ウフィツィ美術館に所蔵されている
[25] 1511年に生まれたヴァザーリは世間からボッティチェルリが忘れ去られている世代の人間である。1550年に初版刊行された『ルネサンス画人伝』に対して、後世の研究ではしばしばヴァザーリの間違いが確認されてきた。その中で《東方三博士の礼拝》に関する制作年代や矛盾点の研究もされており、私は関根秀一氏の説を支持したいと思う。
[26] 1893年にウルマン著作の『肖像論』で指摘されて以来、一般に受け入れられている。
[27] エドガー・ウイント『ルネサンスの異教秘儀』田中英道、藤田博、加藤雅之訳 晶文社1989より
フィチーノは1433年にフィレンツェ近郊で生まれる。父親はメディチ家の侍医であり、才能を見出されメディチ家の保護の下文法、修辞学、ギリシャ哲学、ラテン文学、自然学、医学を勉強し、1456年はじめて書いたプラトンに関する論考がコジモ・デ・メディチにプラトンアカデミーを作る意欲を与えたとの逸話ものこされている。
彼は1473年には司祭になっており、キリスト教の神学と古代の英知との融合を図ろうとした。一方晩年は占星術にはまっていた。それは異端的な思想であるが、彼はプラトンとキリスト教と占星術は相容れるものであると考えていた。一方サヴォナローラの支持者であったともされる。そんなかれは1499年に死去した。
[28] 関根秀一編『イタリア・ルネサンス美術論』東京堂出版 2000 p104-105
[29]ブルーニ・サンティ著『ボッティチェルリ』関根秀一訳、東京書籍 1994 p14
ブルーニ・サンティはそう解釈しているがしかし、私はそれを疑問に感じる。絵の制作年代が1475年前(関根氏の説)だという前提に考えていくと、そのころピーコは10代前半であり、いくら神童といわれた彼でも、さすがにプラトンアカデミーにはいなかったのであろう。逆に考えて、もしも制作年代がピーコ在住とボッティチェルリがローマから帰ってきた年で合わせて1485年以降だとしたならば、その頃すでにポリツィアーノがメディチ宮廷から追放されていたので(1479年)矛盾が生じている。メディチのために描いた絵に追放された人物は普通描かないであろう。そのためブルーニ氏の考えには欠点があるように思う。
[30] ベルガモ、アカデミア・カッラーラ蔵
[31] エドガー・ウイント前掲書 p101より。
[32] ヴァザーリはこのような感想を書いていたが、これは人づてに聞いた感想を述べているようだ。彼は『ヴィーナスの誕生』を、微風に運ばれてヴィーナスがキューピットたちとともに海辺へ着くところの絵と解説しているが、実際ボッティチェルリのこの絵にはキューピットが描かれてはいない。
[33] しかしボッティチェルリは幼年から読書家であったため、読み書きはできた。《神秘の降誕》ではギリシア語で書かれた文章も確認できる。
[34]ブルーニ・サンティ著 同書 関根秀一訳、p50を要約すると、唯一、兄シモーネの1499年の日記が現存するが、この日記では裁判官の一人と、ボッティチェルリが、サヴォナローラの有罪を宣告することになった理由について議論した旨が記されている。しかしここで信奉者であったか否かを判断するのは難しい。
[35] ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』にはサンドロはピアニョ−ネ(泣き虫派)であったとの記載があるが、信憑性に乏しい。
[36] Ronald lightbown“Sandro Botticelli: Life and Work”Abbeville
Press 1989 New York
p241より引用。He was stirred to
lead a life of ever more austere piety by the preaching of Savonarola .ON June
5, 1497,at the age of sixty-four ,He took the Dominican habit in San Marco from
the hands of friar. But he still had to make proper disposal of his worldly
goods,and so he was granted a delay until
[37] ロンドン、ナショナルギャラリー蔵
[38] マサチューセッツ州ケンブリッジ、フォッグ美術館蔵。
背景にはフィレンツェが描かれており、下には十字架にすがるマグダラのマリアが描かれている。その横の天使はライオン(フィレンツェのシンボルも獅子である)のような動物つかみ鞭打っている。この作品の作成は1502年頃だといわれているがちょうどその頃チェーザレボルジアがフィレンツェへの侵入を計画断念していた頃と重なる。神の剣をさらされたフィレンツェが許しを乞うている場面を描こうとしたのかもしれない。
[39] @ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』p123では、「サンドロはサヴォナローラ派に属ししまいに絵筆捨てたから、非常な困窮状態に陥った」と述べられている。
A田中英道は《神秘の降臨》の感想を「この図にある奇妙な繰り返しと類型化には、急速に進展していくイタリアの政治情勢や美術についていけぬ、ボッティチェルリの悲劇の方を私たちは感じてしまう」と書いている。
[40] マニエリスムの代表画家としてあげられるのはティントレット、エル・グレコなどがいる。
[41] 田中英道『イタリア美術史』岩崎美術選書 1990年 p241
ブルーネサンティ著『ボッティチェルリ』関根秀一訳 東京書籍1994年p74
[42] マニエリスムの語源は、方法・様式を意味するイタリア語の「マニエラ」に由来している。極度に技巧的・作為的な傾向をもち、時に不自然なまでの誇張や非現実性に至る。(アーノルド・ハウザー『マニエリスム 上巻』若桑みどり訳 岩崎美術社 1970年 p28)
[43] ミケランジェロははじめメディチ家の保護下で技術を磨いていたが、彼もサヴォナローラに傾倒しメディチを裏切ったことによりフィレンツェから逃れた。そう考えると、かなりこじつけに近いがマニエリスムとサヴォナローラは、ボッティチェルリ抜きでも、切っても切れない関係なのかもしれない。
[44] エンツォ・グァラツィ著、秋本典子訳『サヴォナローラ イタリアルネサンスの政治と宗教』中央公論社 1987年 p142
[45]アレクサンドル6世はユダヤ人に対しても寛容な政策をとり、ローマにユダヤ人居住地域を設け、レコンキスタによって住居を失ったユダヤ人たちが教皇を頼りに多く流入してきた。
[46]須藤祐孝編訳・解説 前掲書 P179
[47] 須藤祐孝編訳・解説 前掲書 p154-p156
[48]F・グイッチァルディーニ著『イタリア史U 3.4巻』末吉孝州訳 太陽出版 2001 P96-107
愚連隊のメンバーは、あるものは憤激派であり、あるものはメディチ派であった。そしてその2つの派を気分で行き来しているものが多かった。「敵の敵はお友達」の原理で共謀し、集まったグループであった。
[50]須藤祐孝編訳・解説 前掲書 P212
[51] エンツォ・グァラツィ著、秋本典子訳 前掲書 P321
[52] マキャベェッリ著『君主論』河島英昭訳 岩波文庫 1998年 p47
[53] [53]須藤祐孝編訳・解説 前掲書 P203